キンモクセイが香る夜

暑い季節が終わり、秋に移ろうかとしている宙ぶらりんの短い期間に金木犀の香りが漂ってくる。

バスから降り立ったら、どこから香るのかわからないが甘い花の香りが夜風にのって鼻についた。
青年――凛はバス停から家までの帰路、いつもなら今日の仕事の反省会をしながら帰るのに、この時期はそうもいかない。それが心底、嫌になる。

月並みだが、別れた恋人のことを思い出すのだ。
夏の終わり、秋が始まったちょうど金木犀の香りと共に一方的に別れを告げてきた恋人、蓮。
色が白く、線の細い女だった。いつも憂鬱そうな表情をしている。

髪を染めることもせず、真っ直ぐな黒髪を後ろでバレッタでまとめているだけの簡素な髪型。うなじに後れ毛があたっていた。一見、とても地味だ。けれど、妙に目をひく。彼女は他の女とは違う儚い美しさがあった。

凛と蓮。名前が似ていることが最初の会話のきっかけだった。
同じ会社に勤めていたので、きっかけさせあれば、やりとりはできた。
凛は30代、蓮は20代後半。年齢的にも釣り合いのとれた背格好もちょうどいい、お互い付き合っている人もいない。
自然と、くっつけるものだと凛は思っていた。そんな風に浅はかにも、あぐらをかいていた自分が恥ずかしい。
別れの言葉は直接、もらっていない。

最後に会った日に蓮はもう一人別の女友達を連れてきた。明るい表情をした、彼女には失礼だが、その辺りを探せばどこにでもいるような女の子だった。
流行りのメイク、髪型、服装、話し方。その友人の個性を探す方が一回会っただけでは難しい。
なぜ、二人で会う席に女友達を連れてきたのか、わからない。
カフェで三人、席に座る。凛は蓮と目を合わせようとしたがその日は合わさることはなかった。
蓮は話すのが苦手な女なのに、その日は必死に友人の良さを訴えてきて、結局メールアドレスをその子と流れで交換することになった。

メールボックスにはどうでもいい子のメールでいっぱいになった。
凛は前に蓮からもらったメールを何度も眺めた。日付は一週間前のものだった。


そのうち蓮は会社を消えるように辞めていった。
理由は寿退社だった。その瞬間、どうして蓮が違う女性を紹介してきたのか、わかったような気がした。
自分に気がある可哀そうな青年に自分は結婚してしまうからと、せめてもの慈悲で違う結婚適齢期の女性を紹介しておこうと思ったに違いない。
腹黒い感情が凛の中で渦巻いた。

それを和らげるのは金木犀の香り。
彼女が消えた去年もそれでなんとか自分をごまかせた。心に空虚な穴があいても何とか優しい気持ちになれた。
感傷的にさせるが癒しもする不思議な花だ。


とぼとぼと歩いていると蛍光灯の下に人が立っているのが見えた。
凛は目を見開いた。

今しがた想っていた女性、蓮がそこにいた。
相変わらず細く、悲しげな表情をした女だった。彼女が大笑いする日はいつか来るのだろうか。
それをしてあげるのは、自分ではないのだろうか……凛は走り寄った。
そして思わず折れそうな彼女を力いっぱい抱きしめた。

彼女のまわりに金木犀の香りがまとわりついている。まるで彼女自身から発せられるように。
月日が流れたのに、つい昨日いなくなったかのように凛はつぶやいた。

「どうして……いなくなった」
「結婚したからよ」
「嘘だ。結婚するような女の顔をしていなかった……君はいつだって自分が一番不幸だって顔をしているじゃないか」

蓮は無言となった。
やんわり、凛の体を押しのける。

「私なんかと、あなたみたいないい人一緒になったら駄目なのよ」
「自分のことを『なんか』と表現するな。自分が好きにならなかったら誰が自分を好きになる?」
「客観視することは大切だわ。私は……あなたが思っているような女じゃない」
「俺がどう思っているのか君にわかるのか」
「……少なくとも、あなたは私を過大評価しているように思う……私ね、また別れたのよ」
「また?」
「ええ。今度で二度目。いつだって私は男の人に何かしらがっかりされて去られてしまうの。外れくじのような私をあなたは愛してくれるの」

凛は蓮がバツがついた女とは知らなかった。
けれど、それでもかまわないと思った。なんにしろ、会いにきたということは頼ってきたということに過ぎないからだ。

「我慢しなくていいから、私が嫌になったら去ってもいいから。ずっと一緒にいようなんて言わないで……あなたまでそう言って去っていったら誰も信じられなくなる」
「――わかった」

凛は決意したように頷いた。寂しげな目元をした蓮。
蓮がいつか笑えるようにしたい。泪を指ですくってやる。

「離婚するかもしれないけど、結婚しよう」

我ながら酷い告白だった。
でも、蓮はほっとしたように微笑んだ。

金木犀の甘い香りが神経を酔わせているのかもしれない。
陳腐な告白は夜の闇にほどけていった。



おわり。










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