妄想的女子の打算的な恋愛計算。

街のネオンが瞼の裏で明滅している。

彼女は目が覚めた瞬間、酷い頭痛と倦怠感に襲われて短く「……う」と呻いた。
前髪をかきあげるようにしてから、のそりと起き上がる。

この酷い頭痛の原因はお酒のせいだけではない。
彼女は枕元に置いてあったスマートフォンで時間を確認したと途端に昨日の夜、友達から送られてきたメールの文面を思い出した。

『今日は楽しかったね♪ ところでさ、山下くんと付き合ってるの?』

思わず目を見開いて何度も短い文を読み返した。
彼女は生まれた年数=彼氏いない歴の自分の人生において誰かと付き合ってるのかと疑われたことは過去数度しかなく、一番最近の記憶では小学校の頃まで遡らなくてはいけない。
思えば、彼女のモテキ全盛期は小学校4年生だった。

山下くん、というのは会社の同僚だった。同僚とはいえ、ひとつ上の年齢で、30歳独身。
彼女の年齢は29歳。年齢の上ではちょうどいい。
おまけに彼女よりも背は高く、趣味はフットサル、とかで体格もいい。
彼女は少し手足がぽっちゃりしているのが不満だが、山下くんは「痩せすぎよりいいですよ。かわいくて」と言った。

たぶん、見た目の上ではお似合いのカップルなのだろう。

彼女は友人に『付き合ってないよ』と短い返事をした。ところが、お似合いだから付き合えばいいのにという返信が来てからは返してない。

山下くんは優しいし、誠実だ。
男性が優しくて誠実なのは必須条件のような気がするが、世の中に「優しくてかわいい」女性ばかりじゃないことを鑑みれば、なかなか、その優しくて誠実という条件は厳しめなのかもしれない。
いわば、山下くんは稀にみるタイプの男性といえよう。

けれど、相手を深く知らないから、そのようなことがいえるのであって、本当はどうかはわからない。
安易に付き合ってしまえと友人は言うが、実は彼女がいるかどうかさえ知らないのだ。
「独身男性・彼女持ち」と「独身男性彼女ナシ」には雲泥の差がある。


別に友人にメールの返信をしたからといって山下くんと付き合うという話にはならない。
それなのに、彼女は「付き合えばいいのに」に対する友人への返事をはためらっている。

頭痛がする。
お酒を飲みすぎたのを後悔しながら、考えを巡らす。

メールをしたら彼女は決断することになる気がしていた。
山下くん、いいねといえば「あの人」を切り捨てることになる。

彼女には心にひっかかる人物がいた。
仮に「あの人」としよう。

「あの人」は……パソコン教室の講師だった。


× × ×

「先生、ここがテキストを見てやっていたのですが、わからないです」
「そうですか。見たままをまず入力していただきましたか? たぶん、あなたならわかると思いますよ」
「……でも、わからなかったです」

パソコン教室はいつも会社の帰りに金曜日の夜7時から一時間だけ通っている。
彼女は仕事の都合上、エクセルとワードを使うために詳しく知りたくて通うことにしたのだ。

「あの人」は先生だった。個人授業ではなくその日に来ているメンバーに対して一人という割合でわからないことをまとめておかないと、いざ聞こうにも他の人がいるから先生を長い間、独占できない。

考えがまとまらないまま、心のわだかまりのいる金曜日になってしまった。
先生が近づくと心臓がドキドキした。聞こえてしまったらどうしようと変な汗までかいてきた。

今日は三谷さんというおじいさんと彼女だけだった。
三谷さんは一生懸命、パソコンで文章を打っている。手紙をパソコンで書きたいと言っていた。
チャイムが鳴って、三谷さんが席を立った。

三谷さんは時間に正確だった。きっちり来てきっちりした時間に帰るのを鉄則としている。
料金は時間分しか支払っていないのだから、そうするのは当たり前だが、彼女は三谷さんが会釈してから帰るのを見届けた。
そして深呼吸する。
彼女は焦っていた。早く考えにけじめを付けたかったのだ。

先生が独身かはわからない(指輪はしていない)
彼女がいるのかもわからない。
教室に通う自分を好意的に思っているかもわからない。
何とも思っていないかもわからない。
そもそも顔を覚えてもらっているかもわからない。

当たって砕けて次に行かなきゃって思うから彼女は思い切って尋ねた。

「先生……仮に、あたしと教室の外で会いましょうって言ったらどうします」

先生はテキストを机でトントンとそろえてから立って告白した、彼女の目を真っ直ぐ見上げた。
先生は彼女より肌が白く、手は繊細そうだった。
血管の浮き出た先生の細い指がキーを叩くのを見ていると、つい触れたくなってしまう。
白い肌の中にある黒い大きな目が笑みの形になる。

なんだか彼女はその笑顔に不安になった。
困ったような顔をして断ってほしいと知らずに願っていた。
けれど、結果は。

「いいですよ。メアド交換しましょうか?」
「え、ほんとうですか?」
「いやなの」
「いえっ! 全くそんなわけがっ!」

……こうなれば、山下くんを切り捨てなくてはならない。
でも、先生が遊び人で本当に外で「会う」だけならOKを返すだろう。だったら優しくて誠実な彼と一緒だったら良かったと思うはずだ。
一番好きなのは先生だけど誠実そうなのは山下くんのが上だ。


あれこれ考える打算的な自分が嫌だ。
嫌だと思うのに「あ、ありがとうございます」と返してメアドを交換するべくスマートフォンをポケットから取り出すと件の山下くんからメールが来ていた。

さっ、と開いて動揺する。

『今夜、会いましょうか』

思わず立ちくらみがした。うれしいけど困る。
彼女は慌ててメールを閉じた。先生は誠実そうじゃないけど、彼女をステップアップさせてくれるのが好きなところだ。厳しいことを言うけれど、それは彼女を思ってのこと。
もし、この先生のやり方に不満があるならやめてしまえばいいだけのことで、そしたら先生は追ってくるはずもない。
それがすごく寂しい関係だと思っていたけど外で会うなら少し変わるはず。

でも、外でもめたら教室には来れなくなってしまう。
先生と彼女は二度と縁がなくなってしまう――。

先生が言った。

「メールは誰から? もしかして彼氏がいるんですか? それは困りますね」

彼女はまたもや混乱して、しばらくその台詞の意味を考えるのに必死だった。
圧倒的に言葉が足りない。本当は心のうちをぶちまけるべきなのに少ないプライドが邪魔をする。

彼女は妄想的日々から脱するために、どちらかを「あきらめる」ことができるのかとても不安だった。
あきらめることが恋愛なのだろうか。

愛とはなんだろうか。
それは、哲学的思想にまで突入しそうだった。



おわり。












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