ほしくないもの。

“このクッキーもらい!”

一枚残ったクッキーはいつだって私の口には入らなかったし、クラスの人気者が好きになるのは別の女の子だったし、バーゲンでほしかった靴が安くなっていると思ったら、私の足のサイズではなかった。

行きかう人を眺めながら地下街を歩く。幸せそうなカップルやスーツの大型の荷物を持った男性陣、黒髪のきりりとした女性はウォークマンを聞きながら早足に歩いていく。
その中に人が無意識に避けている人物がいた。
ふらふらと歩く、俗にいうホームレスの人。

いつだって、私はほしいものをほしい、と叫ばなかった。何もせずに波をたてずにひっそりと生息していた。
向こうから歩いてくるホームレスの男性。年をとった男性は細い体つきをしていた。
猫背に歩くから余計に小さく見えるのだろうか。
周りの人間が触れたがらない、そういう人を見て私はいつだって想像する。

この人に話しかけたら私はどうなるのか。
それはその人にとって失礼なことだが怖いものみたさで私は声をかけたくなる。
ほしいものはほしいって言わないくせにそういうことはつい考えてしまう。

「あの」

男性が長く伸びた前髪から目をのぞかせた。鋭く下から睨まれる。
怖くなって私は、「すいません」と言ってその場を慌てて去る。
男性の舌打ちが聞こえた。

後悔と興奮が私を包んだ。
どうして、あんなことをしてしまったんだろう。声なんてかけていったい私はどうしたかったのか。
もし、あの人が苛立って、怒鳴ってきたらどうするつもりだったの。

「あなたもですか」

声を後ろからかけられて振り向く。
そこには背の高い甘い香りを漂わせた全身黒服をまとった男性が立っていた。
私が苦手とする人間だ。私のような影の人間を蔑む立場の人間。

一歩足をひく。なぜか謝りながら去ろうと思ったのに男性が二の腕を掴んだ。
シルバーのリングが光る。

「怖いのに、怖いものを見たいんでしょう? 暗闇に何が潜んでいるだろうって思うんだろう?」
「え?」
「大丈夫。臆病だから見たいんだよ。僕もそうだ」
「……何の話ですか」
私の胸が高鳴っていく。苦手な男性だ。けれど――。

「ほら、その証拠に君は僕みたいな怪しい男性を知ってみたいとすら思っているんだろう。怖い目にはあいたくないのに、想像してしまうんだろう? その先に純粋なストーリーが待っていないとしても」

この人の言う通りだ。私はほしいものはほしいと言わずに人がほしくないものに限ってほしいと熱烈に思ってしまう。恋慕にも似た感情を覚えてしまう。
いやな執着心。

「さあ、行こうか」

どこへ。何をしに。わからないのに私は彼の手を取った。
ほしくないのに、私はとても惹かれていくのを感じずにはおれなかった。きっとこの高揚感は恐怖感もないまぜになっていることだろう。
麻痺した現代人は感情の区別がわからない。

男性の甘い香り。私は酔ったように彼の隣を歩いた。


おわり。
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