いつだって深淵は傍にある。

暗闇の中、追手から逃げる。走っている自分の鼓動しか耳には聞こえない。
鼓動のせいだけじゃない。
この世界は音もなくとても静かだった。

気配を察知して勘で左によけると後方から刃物がついたワイヤーが飛んできた。
空気を切る音がしてからまた闇に消える。その方向に短剣を投げると遠くでうめき声が聞こえた。
一人倒したと思ったのも束の間、すぐさま両手に三日月のように沿った剣を持った屈強そうな男が現れた。
こいつは見たことがある。昔に殺しの依頼があって殺したやつだ。
目を見開いて凝視している間はなかった。舞うように男が剣を振り回しながら距離を縮めてきた。
とんとん、と跳躍して逃げる。
地面に片足を置いたときだ。何者かが足をつかんだ。そこにいたのは先ほど自分が投げた短剣が額に刺さったワイヤーを飛ばしたらしき男だった。
この男も以前に自分が殺したはずの男だった。
恨みのこもった目で足首をつかみこちらを見上げている。

三日月の剣が間近に迫り腰の長剣を抜いて応戦する。しかし力の差がある。
じりじりと男の交差する剣が顔に迫ってくる。
息がつけないほど逼迫した状態だった。そこへ足首をつかんでいた男がふいに起き上がり後ろから斧を振り下ろしてきた。
背中にまず熱がこもり血しぶきが飛んだ音が聞こえた。
すべてが蜃気楼のようになりゆっくり地面に倒れていく。
地面の衝撃を予想しながらも訪れない。閉じかけた目を開くと何もない暗闇のなかをただ、下に向かって落ちていた。
もしかしたら永遠に落ちていくだけなのかもしれない。
それが死というものだろう。命の尊さとか儚さとかを悔やむための永劫の距離。
何者か――人々が祈る対象とかにでも懺悔して自分の生まれたことへの奇跡と浅ましい事実を理解したときにもしかしたら解放されるのかもしれない。
それまでは、ただ落ちる。

“起きて、朝だよ”


まぶしい光に目を細める。
少女の言うとおりここは現実の世界で朝だった。
生きている者すべてに訪れる朝。特別なことなど何もないはずの光。
手で白い光を遮りながら天井を見上げる。またソファで眠って悪い夢を見てしまったようだった。

「人は……つまらない生き物だな」

ふいに出た言葉はそれだった。少女は首をかしげた。

「つまらないと思うなら変えなきゃ。人生を変えるのは自分でしょ。あたしはあなたと会って少なくともつまらなくなくなったわ」

つまらない。その意味が少し違った風にとらえているがなかなか的を射た答えに殺し屋の男は笑った。
とりあえず、生きている証拠である空腹が襲ってきたので目玉焼きでも焼こうと考える。
ソファから起き上がって彼はあくびをかみ殺した。

少女がこちらを見て笑った。


おわり。
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