迷ったときは楽しい方を。

私はうちの部長と不倫関係にある。
それは今のところ(たぶん)周囲にはばれていない。
不倫が美学なんてことは言わない。けれど、罪の意識なんてものは私にはない。別に週に一度喫茶店でお話をして帰るだけの関係だからだ。不倫、なんて言葉を使うと大げさかもしれない。
でも、私が今一番愛しているのは彼だし、彼もまた妻ではなく私を一番――とは言ってくれてないけど、私の前では笑うことが多い。はず、たぶん。

部長は40代で、細身の高身長。
眼が鋭く、仕事に関してはとても厳しい。奥さんとの間には子供はおらず、いつだって仕事の話しか会社ではしない。
人生のほとんどを仕事に捧げてきた人なのだ。
たばこを吸うので、喫茶店ではいつも喫煙スペースを選ぶ。

そして私はというと、派遣で同じ会社に入っただけの二十代の小娘だ。
接点は本当に些細なことだった。

私は前の職場を派遣切りにあって、自分の何がいけなかったのだろうと考えていた。
本屋によって自己啓発本やビジネス書を立ち読みしていた。
そこに書かれていたのは、

常に笑顔で、あいさつは自分から、残業はしないようにする、朝のうちに今日の仕事の配分を決める、人の悪口を言わずいいところを見つけるようにしよう、謙虚に過ごそう、など書かれていた。
かと思いきや、いい人は損をすると謳っている本もあり、わけがわからなくなった。
本を戸棚に戻そうとしたら、違う本を取ろうとする部長と目があった。

その時は、一礼だけして私はすぐに占い雑誌コーナーへといったん足を運んだ。
自分で考えるのが嫌になったら、占いに頼る。
仕事がうまくいかないのは運勢が悪いせいに違いないと思ったのだ。
雑誌をいくつか流し読みしていると、やはり案の定悪いことが書かれた。
私は基本的に悪い占いしか信じない。いいことばかりが書いてあったら途端に嘘くささを感じてしまうからだ。
それでも占いを信用するのは他人をあまり信頼していないからだと思う。

「で、君が占い本を見てまたビジネス書コーナーに戻ってきて、また占い雑誌コーナーに戻ったときには本当に『大丈夫か、この子』って思ったよ」
部長がおかしそうに笑ってコーヒーカップに静かに口つけた。
長い足を組んで綺麗に磨かれた靴先をゆらゆらと揺らしている。
「こっそり観察していたなんて趣味が悪いですよね」
私はというと、甘ったるいシナモンラテを注文していた。
猫舌なので冷ましながら飲む。
「そのあとすぐに派遣社員としてうちに入ってくることになったときは、俺でも吹いた」
会社では見せないリラックスした笑顔だった。
でも、喫茶店で話すのは仕事の悩みだったりする。私は部長のプライベート情報をほとんど入手できていない。
「ところで、私の後輩……って言っても社員の藤枝君って私のこと嫌ってそうですね」
「ん?」
部長は『藤枝』と聞いて、眉をあげた。
「藤枝慶介です。私より一つ下の。会話するときに目を合わせようとしてくれませんし、いつも遠くにいます」
「あー彼ね。イケメンの部類になるね。で、どうしてそれだけで君のこと嫌いって判断するの?」
「まだあるんですよ、コピー取ろうとしたら藤枝君使ってて後ろで待ってたら、途中なのにどっか行ったんです。明らか、距離をとられたんですよ! 他の女性社員とは楽しそうに笑顔で話してて、大声がこちらまで聞こえてくるんです。わざとですかね。たまに会話することがあったら、仕事の話しかしないんです。他の子とは趣味のテニスの話とかしているのですよ?! 除け者にされているようです……」
私は日頃たまったストレスを部長にぶつけた。
部長からはいつも大人な意見を聞けたので、良いアドバイスを今回ももらえるのではないと期待して言葉を待つ。
すると部長の態度は明らかに悪くなった。
私はくだらないことを話してしまったかと内省した。
部長はいつだってもっと大変な上下社会で生きているのだ。
私なんかの、くだらない悩みを聞かせてはいけなかったのか。そう思った。
「君は、りぼんとかなかよしとか好きだった?」
「へ?」
全くの見当違いな質問に間抜けな声が漏れてしまう。
部長が聞くのだから大事なことだろう。
「はい好きでした。りぼん派でした」
「だろうね。今は読んではないだろうけど、君の頭は今も少女漫画脳だ。藤枝ってやつ、たまにすごく不機嫌そう君に当たることがあるだろう」
「あります、だから嫌いなのかなって――」
「そうなる前後を思い出すんだ。君は他の男性と楽しく話したあとで藤枝と接したはずだ」
私は言われて一番最近の藤枝君が不機嫌だった日のことを思い出した。確かに別の男性社員と仕事のことに関してだが冗談を言い合ったような気がする。
「少女漫画脳はわかりやすく好きだと迫ってくる奴を好むが、現実社会にいる身近な自分に好意を持った男に気づかないことが多い」
「え?」
「気付いたか。そんなわかりやすく好きのサインをする奴は素直すぎるよ。プライドが高いせいで、周りにバレテほしくないから、そんな態度をとる。だが返って当の本人以外はみんな気付いているって始末。俺は嫌いだ」
部長はイラついたようにたばこに火をつけた。
白い煙を斜めに向かってため息まじりに吐く。
この苛立ちは嫉妬だろうか。だったらいいのにな、と言葉にせず考えた。
部長はじっと観察する私の視線に気づいた。
「俺はわかりやすく嫉妬なんかしない。藤枝のこざかしいところが気に食わんだけだ。好きならはっきりとすればいい。そんな奴は仕事でも曖昧な態度をとってしまう」
「なるほど」
なんだ、そっか。と私は納得してがっかりした。
部長の心は小娘の私には全く見えない。この先の関係も見えないし、今の関係さえも全く言葉にしがたいのだ。不倫と思っているのはたぶん私だけかもしれない。
だって占いに書いてあったし。運命の人の特徴は「あなたよりも年下で、プライドが高くて、顔の整った人物」だった。
当たっているなら藤枝君しか思いつかない。
部長がいいのに。部長だったらいいのに。

「占いは、統計学だから」
落ち込みはじめた私の思考をまるで読んだかのように部長が言った。
「本当はこういうこと言いたくないけど。自分に自信を持って自分の頭で考えてみるといい。藤枝のことだって、俺のことだって占いとかに頼らずよく観察して自分の魅力を知れば見えてくるから」
「部長のことは本当によくわかりません」
「だてに君より長く生きてない。少女漫画脳な君に俺が『いつだって俺を頼れ、守ってやるから。俺を信じて』なんて言ったら君は俺の言いなりになりそうだから、あえて何も注文しない」
「……そうですか」

私が動かないとこのステージはずっと喫茶店のままなのだろう。
部長に好きって言っても通じるだろうか。部長は愛を信じていないような気がする。
私にとって「愛」の言葉はすべてなのだけど、部長は理由を求めたがる。
どうして部長のことが好きなのだろう。信頼できるから? 信頼しているなら占いなんて関係ないでしょう? 自信がないから? だからこの胸を絞めつける想いも信頼できない?

「私は部長のこと好き、なのでしょうか」
ふ、と言葉が口から出てしまった。
慌てて口を押えるが出てしまった声は後には戻らない。周囲のざわめきと胸の動悸がうるさい。
顔が真っ赤になっていくのが感じられる。
しまった、と後悔した。
沈黙があったのち、部長の足のゆらゆらが止まった。

足を組みなおす。

「俺は、君のこと好きだよ」
「な」

なんだと?
また私が迷うようなことをいうでしょ、あなたは!
そんな言葉を言って私が混乱しないわけないでしょう。
にやにや笑う彼は本当に楽しそうだった。仕事の疲れが癒されているのがわかったけれど、私はそれを喜ぶ余裕もない。
ただ、ただ、次の言葉が継げないでいた。
少女漫画脳、依存症、占いオタク、何でもいいわ。

私はあの時、本屋に行ったことをとても感謝した。
部長の目にとまったことをとても感謝した。

冷めたシナモンラテを飲む。甘い。とても甘い刺激が舌だけではなく、私の頭の中を満たしていく。
私は今日の運勢を忘れて藤枝君のことも忘れて、不倫とかもちょっとだけ脇に置いて言ってみた。

「今度、人体の不思議展に行きましょう」
「ぶっ?!」

その後、部長が笑いすぎて腹を抱えた姿はまるで私と変わらない若造のようで、新鮮だった。
彼を笑わせることができたのが、とても嬉しい。
人体の不思議展に行ってくれなかったとしても、この喫茶店から進まなかったとしても、占い上結ばれないとしても、今とても幸せなのは事実だ。

もっと、もっとの気持ちを抑えて、私は「今」このひとときを楽しもうと思った。
そういえば、自己啓発本にも書いてあった。

迷ったときは楽しいことをしましょう、と。



おわり。
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