どこかへ行きたいと彼女が言った、

キーボードを叩く音、FAXが届く機械音、電話で誰かが話す声、コール音。
とても静かな社内だけど、私は毎日似たような数字の羅列入力と電話応対をしながら『もし、私の心の声が漏れていたら』と時々想像する。

入力間違い、バックスペース、セル左、昼まで一時間、電話誰かとって3コール目じゃない、そういや、向かいに座っている木内さんはお休みか。あの人よく休むなあ。木内さんと山本さんって本当に付き合っているのかな。木内さんって誰とでも仲いいと思うけど。あ、また入力違う、バック。あ、明日本の発売日だ。漫画も一緒に買おう。
今の髪型頬に髪の毛あたってうざいかも。前かがみにならないようにしなきゃ……。

思考が止まることはないから社内は途端にうるさくなるのだろう。
ましてや、みんなの声が聞こえだしたらうるさくて走りだしたくなるのかもしれない。できるだけ思考をとめて入力作業したいのだがロボットではないのだからいろんな雑念が浮かぶ。
人間に入力作業は向いてない。


「東雲さん」

名字を呼ばれて、はっとなる。
顔をあげると同じ課の鬼頭さんが立っていた。鬼頭さんは爽やかな青年だった。みんなの憧れだ。
だから、あまり会話したくない。

「この前さ、本屋にいたでしょ」
「え?」
みられていたらしい。
しまった。そういや、ハーレクイン小説を物色しに本屋に確かに寄った。乾いた毎日にはうるおいが必要なのだ。
しかし、そういうジャンルを独身女性が物色しているさまは偏見のまなざしで見られる。なんの本を眺めていたかまで見ていたのだろうか。
「ああいう本好きなの?」
「え、あ、え? ああいう本とは」
「ここで言っていいの?」
「すいません、やめてください。たまに読みます」
 
この人やばい。わたしの秘密を知っている。いや、秘密ってわけでもないけどさ。おしゃべりな人だったら尾ひれつけて妙なことになるかも、いやだな、やっぱり週末に本屋は危険だな、てかこの人なんなの。

めちゃくちゃな思考回路。
顔には出さずパニックになる私をよそに鬼頭さんが笑う。

「ここで言えない本を眺めてたの?」
「!」

図ったな、コノヤロー!!
思わず罵倒を浴びせかけようとしてぐ、とこらえる。
「いや、小説ですよ。小説」
ごまかす。すると鬼頭さんはいきなり曇り顔になった。
「なんの小説?」
「ええ、まあ……」
「会話する気ないの」
「いえ、そんなことは」

のらりくらり。なんだろ、鬼頭さんしつこいな。
「今、しつこいって思ったでしょ」
「はあ。まあ……」

つい、本音が出てしまった。鬼頭さんが再び笑顔になった。私は慌てて取り繕おうとするがあまり効果はない。
鬼頭さんが言った。

「東雲さんって時々、どこか遠くて行きたいって顔してるよね」
「……してます?」

してます? と聞きながら私は確かにと胸中うなづいた。
私は遠くへ行きたいと常々考えている。
鬼頭さんが「うん」と言ってから、

「――遠くへ行きたいと彼女が言った」

と笑顔のまま呟いた。そして片手をあげて去っていく。
まるで小説の一説のような台詞。

私は今だけ人の心が小説を読むように気軽に読めたらいいのにと思った。
詳しく彼の心中を描写してほしい。
じゃなければ、やっぱり。

遠くへ行きたい。



おわり。



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